歴史・遺跡

見どころ

ローマ、アラブ、トルコなど、数々の民族の興亡が繰り広げられたチュニジアは、歴史遺跡の宝庫。民族の栄枯盛衰と壮大な歴史ロマンが刻まれた遺跡群は、チュニジア最大のみどころのひとつです。

地中海の覇権争いの舞台となった、波瀾万丈の歴史

チュニジアの歴史は紀元前9世紀、フェニキア人による植民地都市・カルタゴの建設に遡ります。商才に長けたフェニキア人は、カルタゴを拠点に地中海の交易で栄え、ギリシャやローマとの覇権争いを繰り返しました。そしてカルタゴ建設から約200年、ついに勢力を増したローマがカルタゴに勝利し、ローマ人の支配が始まります。しかし、その後7世紀に入ると、アラビア半島で興ったイスラム王朝ウマイヤ朝が北アフリカに侵攻。ローマ帝国の衰退にともない、アラブ人によるチュニジア支配時代が訪れます。

その間、北アフリカの土着民族・ベルベル人との攻防もあり、その後もスペインやオスマン・トルコなど、ヨーロッパおよび中央アジア諸国から狙われたチュニジアは、地中海の覇権争いの舞台となりました。数々の文化が融け合うその独特の風土は、こうした歴史によって育まれています。

7世紀以降、長きにわたるアラブ人の支配により、現在もアラブ=イスラム文化圏として知られるチュニジアですが、特にローマ時代の遺跡が数多く残され、世界遺産にも多数登録されています。

消えた古代フェニキア人都市ーカルタゴ

フェニキア(現在のレバノン)の植民地として建設された都市国家カルタゴは、紀元前6〜2世紀頃、優れた海洋技術を持つ貿易大国として栄えましたが、地中海に覇権を伸ばすローマ人の勢いに飲まれ、3回にわたる「ポエニ戦争」により徹底的に破壊されました。その後すぐにローマ人の入植がはじまり、街はローマ風に作り変えられてしまったため、カルタゴ時代の遺跡は墓地や軍港跡などしか残っていません。

数少ないカルタゴ時代の遺跡群

交易で栄えた当時を彷彿とさせる、カルタゴ時代の軍港に残るドック跡。ここで造船や船の修理が行われました。このほか、フェニキア人が信仰する神が祀られた墓地などが、カルタゴ時代の遺跡として残っています。

土着信仰と合理性を併せ持ったフェニキア人

カルタゴを作ったフェニキア人は、エジプトやバビロニアなどを起源とするセム族に属し、衣服や習慣も東方的傾向が強い民族。商才と確固たる政治力で栄えた一方で、幼児生贄の儀式など、土着の信仰を重んじていた事を示す出土品が数多く発見されています。

アントニヌスの共同浴場

ローマ帝政時代には、ローマに次ぐ大都市として栄えたカルタゴ。紀元前2世紀頃には、ローマ五賢帝のひとりアントニウス・ピウス帝により共同浴場が作られました。広大な敷地に大理石が施された豪華な作りは、その強大な権力を象徴しています。

アフリカ最大規模のローマ遺跡ードゥッガ

カルタゴの南西約100Kmに位置するドゥッガには、アフリカで最大規模かつ最良の保存状態を保つ古代ローマ遺跡があります。ドゥッガは紀元前46年からローマ人の支配下に入りましたが、旧来の制度が廃止されずリビア人やフェニキア人と共存していたため、それぞれの文化が融合した独自の風土が育まれていました。

キャピトル神殿

ギリシャのパルテノン神殿に似たキャピトル神殿には、土着の様式と融合した装飾が施されています。

数々の戦闘の舞台となった円形闘技場ーエル・ジェム

ローマ時代、オリーブ油の輸出で栄えたエル・ジェムには、240年ごろに完成したローマ帝国で3番目に大きな円形闘技場があります。ローマ時代の円形闘技場のうち3階部分まで残っているのは、ローマのコロッセオとこのエル・ジェムだけ。ローマ帝国衰退以降は、ベルベル人やイスラム教徒の要塞に利用され、1695年にはオスマン帝国軍の攻撃により西側部分が破壊されました。

人々が熱狂した最大の娯楽施設

ローマのコロッセオに代表される円形劇場は、その後も帝国各地に作られ、娯楽施設として人々に親しまれました。猛獣と剣闘士の闘いや、死刑囚同士の殺し合いなどの壮絶な格闘が催され、人々はそのスリルに熱狂したと言われています。